この頃には、西洋では木製のねじ切り旋盤を使用しており、試行錯誤の連続であったと思われますが、イギリス人のヘンリー・モズレーが、1830年ころに金属製のシャーシで出来たねじ切り用の旋盤を開発します。 今までの、木製のシャーシで生産した物と比較すると精度も高く、同じねじが大量に作れるようになりました。切削でねじ山を削っていく方法です。
この機械の開発で、それまでは日本と同じように、ねじとナットは刻印した物同志しか使用できませんでしたが、ねじとナットの互換性が満足できるように成りました。
(図1 ねじ切り旋盤)
1770年代にイギリスに産業革命が興り、鋼板を締結する「ねじ」と「ナット」は 驚異的な需要になっていきます。
モズレーの弟子のジョセフ・ホィットワースは、多くのメーカーが客先から発注される、勝手気ままなピッチ、山形、外径などで作っていたねじを調査し、1841年に「ウィットウォースねじ」として標準化します。この標準化により、何処のメーカーのねじも同じ規格となって、イギリスの機械の輸出に大きく貢献します。
「ウィットウォースねじ」は後にイギリスの規格(BS規格)として正式に採用されます。
いわゆる、互換性の利くねじの登場でした。後にこの功績により氏は「ナイトの称号」を得ます。
このねじの、ねじ山の角度は55°であり、切削で作るねじですから、頭形状は六角(四角)等でドライバーが入る溝(リセス)はスリ割り(マイナス溝)加工されていたようです。
ねじの大量生産は産業革命を飛躍的に発展させる引き金となり、大英帝国の文明発展に伴い、英国製の機械が輸出されることで自然派生的にウィットウォースねじは全世界に広まることになりました。
その後、各国で独自の規格が採用されます。
アメリカでは山角60°の「セラーズねじ」いわゆるインチねじ、フランスなどは同じく山角60°の「SI規格」いわゆるメートルねじが開発されました。産業革命の世界的な広まりは、各国で独自のねじ規格を生むことになりました。
ねじ規格の標準化はフランスを中心としたヨーロッパ各国で国際化の強まりを見せ、現在でもISOメートルねじ規格の基となっております。
また戦争が全世界にまたがる様相を見せ始めた20世紀初頭の話になりますが、第1次世界大戦で連合国軍が、ねじ規格の違いによる武器や軍車両の修理でかなり苦い経験をした(部品があってもねじが合わない)ことを踏まえ、アメリカ、イギリス、カナダの三国で軍需用に「ユニファイねじ」が規格化されます。この規格は現在のISOインチねじとして現在に至っております。
第2次世界大戦後は、「メートルねじ」「インチねじ」のそれぞれの良さを認めつつ、ISO(国際標準化機構)が全世界共通規格として、現在のねじ規格の2大主流として採用するに至ります。
日本では1949年6月1日に工業標準化法が交付され、JIS(日本工業規格)が制定されます。この日に因んで、1975年から6月1日を「ねじの日」としています。
モズレー氏が開発したねじ切り旋盤は、ホイットワース氏が改良を加え各地で生産され、1857年には日本にも納入されています。 徳川幕府もこの機械を導入し(図1)ねじ、ナットの生産を開始しています。
当時の幕臣であった小栗上野介忠順が軍需用の目的に導入し、明治維新後もこの機械は横須賀軍工廠に移り活躍したそうです。
以下、余談として―――
小栗上野介忠順は「日本の近代化の父」とも言われております。西洋文明を目の当たりにし、その発展ぶりに驚愕し、1本の「ねじ」を持ち帰ったそうです。氏曰く「ねじは西洋文明の原動力なり」と有名な格言を残されております。
日本の近代化に歩む過程でも、やはり「ねじ」は重要なアイテムであったのだろうと言えます。
1850年代に成ると ヨーロッパで冷間鍛造機が開発されます。
当時、1/2インチ径のボルト二本の価格は、職人の日給の半分くらいだったそうです。
現在なら一本¥5000以上するのでしょうか?
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